LOGINレインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。
手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」 「誰が?」 「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」 「どういう顔」 「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」 「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」 「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」 「その方が早い、と判断した」 「学院の用件も兼ねて?」 「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」 「名目、と言った」 「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。
改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。 「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」 「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベルに書かれた文字と効能を読んで、また戻す。 「分類が、前より細かくなっている」 「ルナが増やしてくれた」エリナが答えた。
「私が知らない種類が、いくつかある」
「ここに来ている薬草の産地は?」 「近隣の野原と、トレネ近くの林。シェナという人が定期的に届けてくれている」 「シェナ?」 「新しい現場責任者の一人。薬草の知識が深い」 レインが頷いて、次の棚に目を移した。観察しながら、ときどき短い質問を挟む。無駄な感嘆も、誇張した驚きもない。ただ、見るべきものをきちんと見ている。 その目が、エリナは好きだった。 前世でエンジニアをしていた頃、こういう目をした同僚がいた。感情で評価せず、でも対象を軽んじることもない。ただ、正確に見る。 似ている、とは思わない。でも、居心地がいい理由の一つは、そこにある気がした。昼食の後、エリナとレインは事務室で向かい合った。
ゴードンは商人組合との打ち合わせで出かけていた。マリオは荷物の整理。ルナは薬草の乾燥作業。母のセレーナは縫製の仕事。 事務室に、二人きりだった。 「学院の話を聞かせて」エリナが切り出した。
「変化がある」レインが答えた。
「石鹸と消毒液を正式採用する方向で、医療棟の責任者が動き始めた」
「クロヴェル派の妨害は?」 「学院内部への直接介入はまだない。ただ、外から圧力をかけようとしている気配はある」 「どういう形で?」 「学院への資金援助をしている貴族の一部が、『魔法省の意向に反する研究には資金を出しにくい』という話をしたと聞いた」 「資金を盾にした牽制。クロヴェルの得意な手だ」 「ただ」レインが続けた。
「その貴族たちが出している資金は、全体の三割程度だ。残り七割は王家からの下賜と、学院の独自財源でまかなっている」
「三割を人質にしても、学院全体は動かせない」 「そういうことだ。だから今は、牽制の段階で止まっている」 エリナは頭の中で計算した。 三割という数字は、無視できる規模ではない。でも、致命傷でもない。クロヴェルが今、その手を使ったということは、より直接的な手段をまだ持っていないか、あるいは温存している、どちらかだ。 「レインの師匠は、どう動いている?」 「王宮の魔法師団長と定期的に連絡を取っている。陛下へ定期報告を上げる際に、学院での実績データを添付するよう調整してくれた」 「つまり、国王に定期的に数字が届く仕組みができた」 「そうだ。今のところ、陛下の関心は続いている」 エリナは、小さく息を吐いた。 一年という期限の中で、国王の関心を維持し続けることが、最も大事な条件の一つだ。数字が定期的に届く仕組みができたなら、それは大きな一歩だった。 「ありがとう」 「礼はまだ早い」レインが静かに言った。
「こちらの話は以上だ。今度はお前の話を聞かせてくれ」
エリナは、グレンへの調査から始まり、フィオナの報告、流通ルートの備え、現場責任者三人の状況まで、順を追って話した。
レインは黙って聞いていた。 話が終わると、少し間を置いてから言った。 「ルシェムへの直接調査が入ったなら、次は商品そのものへの介入を試みる可能性がある」 「商品そのもの?」 「品質に問題がある、という虚偽の報告を流すか、あるいは実際に品質を下げる何かを仕掛けてくるか」 エリナの背筋が、わずかに固くなった。 「品質を下げる、というのは——」 「生産の過程に干渉する。材料の供給を断つ。あるいは、より直接的な方法」 「直接的な方法」 「今夜」レインが少し声を落とした。
「作業場の周りを、一度確認した方がいい」
「なぜ今夜」 「直感だ。根拠はない」 エリナはレインの目を見た。 直感、と言った。この人が直感という言葉を使うのは珍しい。それだけ、何か感じるものがあるということだ。 「マリオに伝える」 「俺も確認する」夜になった。
ルシェムの町は、いつもの静かさに包まれていた。 エリナは母に「少し見回りをする」と告げて、外に出た。レインとマリオが、すでに作業場の周りを分担して確認していた。 空は曇っていた。 月明かりがない分、路地が暗い。 エリナが作業場の裏手に回ったとき、鼻に何かが引っかかった。 油の匂い。 それも、獣脂の匂いではない。もっと刺激的な、燃えやすい種類の油の匂いだった。 「レイン」 声は出さずに、口の形だけで呼んだ。 レインが素早く来た。エリナが地面を指差した。 作業場の壁の根元に、油がしみ込んだような痕がある。広い範囲ではない。でも、もし火をつけられていたら。 「まだ火はついていない」レインが低く言った。
「最近、ここに来た者がいる」
マリオが角から現れた。 「どうした?」とマリオが言いかけて、地面の痕を見て黙った。 「見張りは?」 「グレンさんが頼める」エリナが即答した。
「あと、ハンスさんに明日朝一番で話す。作業場の外に、もう一枚板を張り直す必要がある」
「今夜は、誰かが起きている方がいい。俺が最初の番をする」 「俺が代わる」レインが言った。
「王都から来た人間に番をさせるのか」 「俺の方が感知できる範囲が広い」 「……魔法か」 「使わなくても、気配を読む訓練はしてある」 マリオがしばらくレインを見た。それから、小さく頷いた。 「わかった。じゃあ俺が前半、レインが後半」 「決まった」エリナが言った。
「お前はどうするんだ」 「中から、記録を整理する。状況をゴードンさんとフィオナに報告する文書を今夜中に書く」 「眠らないのか」 「後で眠る」 「後でって、いつだよ」 「夜明け前には眠る」 「それで足りるのか」 「足りなければ、日中に少し休む。効率の問題だから」 マリオが呆れた顔をした。 レインは何も言わなかった。 でも、エリナが中に入ろうとした時、小さく声をかけてきた。 「エリナ」 「何」 「無理をするな、とは言わない」 「言わないの?」 「言っても聞かないとわかっているから」 エリナは少しだけ止まった。 「でも、今夜、外の番は俺たちがやる。中の仕事はお前がやる。それで十分だ。全部一人でやろうとするな」 その言い方が、命令でも心配でもなく、ただ事実を並べた言い方だったので、エリナは素直に頷けた。 「わかった」夜中の二時頃。
マリオから交代したレインが、作業場の陰で静かに周囲を見張っていた頃。 エリナは事務室の机で、フィオナへの報告書を書き終えた。 油の痕のこと。今夜の見張りのこと。今後の対策。そして、レインが来ていること。 最後の一行は、報告書には書かなかった。 別の紙に、短く書いた。 『レインが来ている。直感で、今夜の異変を察知してくれた。助かった。』 それだけ書いて、封をした。 フィオナが読んだら、何か言うだろう。 きっと、意味ありげな顔をして、余計な一言を添えてくる。 エリナはそれを想像して、少しだけ口の端が動いた。夜が明けた。
幸い、それ以上の異変はなかった。 朝になってから確認すると、油の痕の近くに、小さな布切れが落ちていた。 使いかけの蝋燭に使うような、粗い麻布だった。 火をつけようとして、何らかの理由で中断したのか。 あるいは、今夜は「様子見」だったのか。 エリナはその布切れを、小さな袋に入れてしまった。証拠として持っておく。 「ハンスさんに話してくる」マリオが言った。
「一緒に行く」エリナが答えた。
「俺は?」レインが聞いた。
「グレンさんのところに、昨夜のことを伝えてほしい。見たことと、作業場の周りに見知らぬ人間が来た場合はすぐに教えてほしいと」 「わかった」 三人が、それぞれの方向に動いた。 ルナが作業場の戸口に立って、三人の後ろ姿を見ていた。 猫が二匹、彼女の足元に座っている。 エリナが振り返ると、ルナが無言で小さく手を振った。 いつもの、無口な激励。ハンスは話を聞き、黙って腕を組んだ。
長い沈黙の後、立ち上がった。 「外壁の板は、今日中に張り直す。窓の位置も、一つ塞ぐ」 「費用は——」 「払いは後でいい」 「ハンスさん」 「お前が約束を守る奴だと知ってる。それだけで十分だ」 同じ言葉だった。 最初に木の容器を頼んだ時と、同じ言葉。 エリナは深く頭を下げた。 言葉が、うまく出なかった。 それで十分だと、ハンスも知っていた。その夜。
作業場の外壁が補修され、グレンが見張りに立ってくれることになり、ジルカへの輸送代替ルートの確認が完了した。 ゴードンが報告書をまとめ、フィオナへの手紙に同封した。 レインは翌朝に学院へ戻ると言った。 夕食の後、エリナとレインは作業場の前に並んで立った。 修復された外壁が、夜の中に白く浮かんでいる。 「燃やされなくて、よかった」 「ああ」 「レインが来てくれていなかったら、気づくのが遅れていたかもしれない」 「かもしれない、だ。お前も気づいた可能性はある」 「でも、今夜は早く気づけた」 レインが少し黙った。 「直感、と言ったが……」レインがゆっくり言った。
「正確には、お前の手紙を読んでから、ずっと引っかかっていたんだ」
「何が?」 「クロヴェルが調査を入れた、という話。調査の次に来るのは何かを考えていた。流通への介入か、情報操作か、直接的な妨害か。その中で、最も素早くできるのは最後の手段だと思った」 「それで、来ることにした?」 「それもある」レインが少しだけ間を置いた。
「それだけでは、ない」
エリナは、レインの顔を見た。 横顔は、いつも通り無表情に近い。 でも、その『それだけでは、ない』という言葉が、少しだけ宙に浮いたまま、回収されなかった。 エリナは、その言葉の続きを問わなかった。 問わなかったのは、答えが怖かったからではない。 今夜は、この言葉がここにあるだけで、十分だと思ったから。 それだけのことだ——と、心の中で呟いた。 でも今夜は、その『それだけのことだ』が、いつもより少し薄かった。翌朝、レインが出発した。
長屋の前で、短い別れだった。 「一年後」とレインが言った。 「一年後」とエリナが返した。 「約束は、覚えている」 「私も」 レインが歩き出した。 マリオが横に立って、また何か言いたそうな顔をしていた。 エリナは黙って、レインの背中が路地の角を曲がるのを見ていた。 今回は、少し長く見ていた。 それに気づいて、視線を戻した。 「何か言った?」 「言ってない」マリオが慌てて首を振った。
「言いたそうな顔をしてた」 「してない」 「してた」 「……エリナって、本当に変なところだけ鋭いよな」 マリオがぼそりと言った。 エリナは答えなかった。 作業場の方へ歩きながら、頭の中で今日のやることを並べ始めた。 在庫確認。ヴァロウのマグダへの発送。ゴードンとの帳簿の照合。フィオナへの返事。 やることは、いつも通り山ほどある。 それが、今は少しだけ、ありがたかった。 動き続ければ、余分なことを考えなくて済む。 エリナ・アッシュフォード、七歳。 作業場の壁は、今日も白かった。 燃えなかった。 それで、十分だ。流通が止まってから五日が経った。 その五日間、アッシュフォード商会は止まらなかった。 迂回路を使い、猟師のベルトが週三回荷物を運んだ。量は減ったが、ヴァロウとトレネへの供給は続いた。マグダが現地で在庫を管理し、シェナが薬草薬の一部を現地調合で補った。キーシュのジルカは海沿いの別ルートを一本確保して、南方面への影響をほぼゼロに抑えた。 ゴードンは毎日、王宮への定期報告書に一行だけ追記した。 「流通の一時的な制限により、供給量が通常比七割となっております。代替手段により、医療的効果を持つ商品については継続供給中」 七割という数字を、正確に記録した。 困っているとも、誰かを責めるとも書かなかった。 ただ、事実を、正確に。 「これが大事なんですか」 マリオが横で帳簿を眺めながら聞いた。 「王宮への記録に残す、ということが?」「そうです。供給が減った理由を書かずに数字だけ書いていれば、誰かが後で見た時に『なぜ減ったか』を調べることになる。調べれば、流通の停止が見えてくる」「じゃあ、クロヴェルが止めたって、わかる?」「わかる人間には、わかります」 マリオがそれを聞いて、少しだけ顔を明るくした。 「賢いな」「エリナさんの方針です。直接告発するのではなく、数字で語る」 五日目の夕方、フィオナから手紙が届いた。 いつもより分厚かった。 エリナへ 動いた。結果から書く。 明日の午前、橋の検問が解除される見込み。理由は「書類確認が完了した」という公式発表になる予定。 裏で何があったか。 アルバ殿下が、地方道路管理局に対して「王宮からの商業視察対象商会の荷物について、優先的に通行を確保するよう」という非公式の通達を出した。命令ではなく、「配慮のお願い」という形。これで局長は「殿下の意向に従った」という体裁が立つ。 同時に、私がゴードンさんから教えてもらった情報を使って、局長の周辺にいる
物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。 朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」 エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」「通行証は、出ているはずです」「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」 書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」「はい」 男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」 ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」「ベルナへの荷物は?」「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」 エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運
ダリウス・クロヴェルが再びルシェムに来たのは、作業場の油の痕が発見されてから二週間後のことだった。 今回は、予告があった。 前日の夕方、丁寧な文字で書かれた短い手紙が届いた。 『明日の午前、改めてお話の機会をいただけますか。前回は突然の訪問をお許しください。今回は正式にお時間を頂戴したく。ダリウス・クロヴェル』 エリナはその手紙を三度読んだ。 前回より、文体が少し違う。「正式に」という言葉と、「前回は突然」という謝罪。どちらも、前回にはなかった言葉だ。 「来ていいか聞いてくる前に、来ることを決めてる」 フィオナへの手紙の下書きにそう書いて、それから消した。 余計な観察を文章にしても仕方ない。 返事は短く書いた。 『明日の午前十時、ルシェムの市場近くにある宿の一室をお借りします。そちらにお越しください。アッシュフォード商会 エリナ』 ゴードンに見せると、「場所の選び方が良い」と言われた。 「長屋ではなく、公共の場に近い宿を選んだのは?」「母のいる場所に通すのは、リスクがある。宿なら、第三者の目がある。それが双方にとっての抑止になる」「正解です」 ゴードンが静かに頷いた。 翌朝、エリナはいつもより少しだけ丁寧に身支度をした。 服は、王都に行った時と同じ一張羅だ。古い生地だが、縫い目はセレーナの仕事なので完璧だ。髪を後ろで一つにまとめ、革靴を磨いた。 鏡代わりの水盤に顔を映して、確認した。 七歳の子どもの顔だ。 それは変えようがない。でも、その顔に気圧されない目をしていれば、それで足りる。 宿に着くと、ゴードンが先に来ていた。部屋の隅に椅子を一脚余分に置き、テーブルの上を整えていた。 「フィオナさんから、昨夜遅くに手紙が届きました」 ゴードンが封筒を差し出した。 「ダリウスの件についてですか」「そうだと思います」 エリナ
レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ
フィオナからの最初の手紙が届いたのは、三人の現場責任者を決めてから五日後のことだった。 朝の市場から戻ったマリオが、馬革の封筒を持って駆け込んできた。 「王都から来てる。フィオナさんからだ」 エリナは薬草の仕分け作業をしていた手を止め、封筒を受け取った。 封蝋には、小さなクロスベルの家紋の代わりに、フィオナが即興で作ったらしい印——葉っぱの形をした押し型——が押してあった。 開けると、二枚の紙が出てきた。 一枚目は、ルシェムへの報告。簡潔な文体で、王都の空気の変化が箇条書きにまとめられていた。 二枚目は、全然違う文体だった。 エリナへ 王都は、思っていたより動きが早い。 あなたが国王陛下に謁見した話は、翌日には宮廷の半分に広まっていた。反応は大きく二つ。「面白い」か「危険だ」か。中間がほとんどいない。 クロヴェル派の動きを追っている。具体的な妨害はまだ出ていないが、水面下で根回しをしている気配がある。特に、商人ギルドの幹部数名と、魔法省の中堅どころが接触を繰り返しているのが気になる。 一方で、実務派の魔法師たちの間では「アッシュフォード商会の成果を無視するのは損だ」という声が少しずつ出始めている。レインの師匠が動いてくれているらしい。 あと、ダリウスが最近、宮廷でやや孤立しているという噂がある。父親との間で何かあったのかもしれない。確認中。 それと——あなたが「事務室が少し広く感じる」と書いてくれたの、正直言うと少し嬉しかった。毒舌参謀として言わせてもらうと、あなたはもう少し素直に寂しいと言える人間になった方がいいと思う。次の手紙には、数字だけじゃなくて、もっと変なことを書いてちょうだい。 ――フィオナ・クロスベル―― 追伸:レインへの手紙に『今日も雨が降った』と書いたでしょう。彼、それについて何か言ってた? エリナは手紙を読み終えて
王都から戻って一週間が経った。 ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。 石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。 完成までにあと十日ほど。 その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。 現場責任者の候補を、決める。「候補は、こんな感じだ」 マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。 炭で大きく書かれた名前が、三つ。 マグダ・トーラン(ヴァロウ町) ジルカ・ベッセル(キーシュ町) オーリック・モア(トレネ町)「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」「人柄は?」「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」 マリオが指で名前を叩く。「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」「もう一人は?」「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」 エリナは三つの名前を、じっと見た。「三人とも、人物像が違うね」「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」「いい判断」「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」「ちゃんと相談したのが、いい判断」「言い方」 マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。「順番は?」「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」「じゃあ、明日出発







